「人として」

今朝は3時半起き。

ちょっとだるかったけど…

朝ランニングはできたのでよし。

 

さて今日もニュースではコロナ関連が目立つ。

特に開催まで2ヶ月を切った東京五輪も相変わらずだ。

ただ次第に論点が開催か中止かではなく

無観客か有観客かにずらされているようだ。

 

反対派(中止派)としては

そもそも去年より状況はひどいのに何故やるのか

安心安全の開催と謳うけど

具体的な策や指標は一向に出てこない中で

どう賛同しろというのだろう。

 

フリーライター中川淳一郎氏は相変わらず

「新型コロナはそこまで恐ろしいウィルスではない。なにしろ若者がほぼ死なないのだから」と

一貫して主張しており、東京五輪についても反対派をひどくこき下ろしてる印象だ。

 

まぁ分かり合えないのだろうな、と思う。

五輪開催反対を唱えれば手っ取り早く「常識人」「人格者」と思ってもらえると

そもそもなぜ反対の人は反対なのかを深く掘り下げもせずにいるのだから。

そして大前提が「新型コロナウィルスは大したことない」である。

 

では度々見かける医療関係者の

「変異型は従来型とは全く別物」

「若者でも重症化する」

「こどもも感染しやすくなっている」

「重症化のスピードが従来型より早い」

といって証言については全く触れていないわけだ。

 

そして五輪が開催され、日本人選手がメダルを取れば

手のひらを返したようにみんな盛り上がるに決まってる、と。

 

まぁメディアはそういう論調を作るかもしれないし

中にはそういう人もいるだろう。

でも国民を馬鹿にしすぎじゃないか??

 

ここに至るまで再三自粛自粛と言われて

経営ギリギリの飲食店や

コロナで業績悪化し解雇された人たち

支援金・協力金が届かずに困窮している人たちがいる

そんな中で少なくとも国民の半分は反対しているのに

それを無視する形で強行開催したところで

純粋にアスリートを応援できると思うのか

 

そもそも去年からコロナの影響は世界中で出ている

レーニングも難しかったろうし

結局オリンピック選手の選定もどこまで公平にできたというのか

ある意味、こういった状況が有利で

メダルが獲得しやすいという主張は当たっているのかもしれないが

そんな状況でメダルを獲得して嬉しいのか?

 

 

そのメダルにどれほどの価値が?

 

 

そしてコロナ禍でこれほどの議論を生んでいる五輪開催。

さまざまな事情もあろうが

開催の可否について何の意思表明も意見も言えないアスリートは

私はやはり少々無責任ではないかと思う

この状況下でもアスリートとして

参加したいと思う気持ちはわからないでもないが

開催の決定権がないからと自分たちに矛先を向けるな、というのもどうかな。

 

それにIOCは安心安全の大会と謳いながらも

コロナについては自己責任だといってのけた

どういうつもりか知らないが

開催側は利益のために開催したいだけ

そしてコロナに乗じて一切の責任を放棄しているようなものだ

 

それがこれまでにないほどあからさまに見えるから

みんな反発しているわけだ

人間みんな自分がかわいい

だから国民は今一部の人間のために五輪開催されるより

普通に外食できるようになりたいし

普通にレジャー楽しめるようになりたいし

五輪開催するくらいなら運動会や修学旅行やってくれと思うんだ

 

スポーツの世界もすっかりビジネス色に染まってしまったな

もちろん綺麗事だけでは食べていけないわけだけど

至る所で「人として」が抜け落ちているように感じる

 

私たちはまず何よりも「人して」どうあるべきか

自ら問い直すことが何より必要なことなんじゃないのか